東京アートプロジェクト――読売アンデパンダン展以後のアートと社会


加治屋 健司

はじめに
読売アンデパンダン展

本稿は、歴史的な視点から東京とアートプロジェクトの関係について考察することを目的としている。よく知られているように、アートプロジェクトは主に地方で行われてきた。「アートキャンプ白州」(山梨)、「ミュージアム・シティ・プロジェクト」(福岡)、「灰塚アースワークプロジェクト」(広島)、「取手アートプロジェクト」(茨城)、「越後妻有アートトリエンナーレ 大地の芸術祭」(新潟)、「BEPPU PROJECT」(大分)、そして私が関わっているものを挙げさせてもらえれば、「広島アートプロジェクト」(広島)等、いずれも東京の美術館やギャラリーを離れて、地方都市の街なかや大自然の中を舞台としている。そうだとしたら、東京アートポイント計画という本格的なアートプロジェクトが東京に登場したことは何を意味するのだろうか。そもそも、アートプロジェクトはなぜ地方で行われてきたのだろうか。

こうした問いについて考えるために、本稿は、日本の戦後美術の歴史で最も知られた出来事の一つである読売アンデパンダン展を取り上げたいと思う。なぜ40年以上前に中止された展覧会を今さら取り上げるのかと思う人もいるかもしれない。しかし、読売アンデパンダン展は、東京都美術館で行われ、東京オリンピックの開催直前に中止された現代美術の一大プロジェクトであり、東京、現代美術、芸術の公共性について考察するためには重要な参照対象である。本稿は、東京における野外展示について振り返った後、読売アンデパンダン展中止後の地方でのアンデパンダン展の展開や、批評における空間や場所の主題化を論じて、読売アンデパンダン展がその後の現代美術にもたらした意義を明らかにしたい。


美術館の外へ――東京の場合

東京は、アートプロジェクトと無縁だったわけではない。今年(2009年)秋に府中市美術館で開かれた「多摩川で/多摩川から、アートする」展が示したように、多摩川の河原は、現代美術の作品が制作され、発表される場となってきた*1。1964年に中村宏と立石紘一からなる観光芸術研究所が「観光芸術展」の展示を行い、1971年山中信夫が《川を写したフィルムを川に映す》を上映し、1979年に川俣正が《バイランド》を制作し、1989年に蔡國強が初めて野外で爆発のプロジェクトを行ったのは、いずれも都内の多摩川の河原であった。とりわけ、後に「Project for Extraterrestrials」シリーズの最初に位置づけられることになる蔡の作品は、「多摩川ふっさ野外美術展」に出品したものであり、この野外美術展が福生市の福生南公園や府中市の多摩川緑地で開催されたことを考えると、東京でもアートプロジェクトが行われていたと言えなくはない。

しかし、こうした作品やその野外展示は、今日で言うアートプロジェクトのように、制作・展示される場所に密接に関係していたわけではない。「観光芸術展」で展示されたのは、立石が読売アンデパンダン展に出品するために作っていた作品である。立石自身、「室内芸術から野外へ......という発想とはぜんぜん違う」と述べているように、アンデパンダン展での展示の延長という性格が強かった*2。美共闘REVOLUTION委員会のメンバーであった山中は、この多摩川での上映を振り返り、「(美術館の)外という事を志向しないでやる事は、美術の神話、美術館の内でやる事に等しい」と述べている*3。山中の関心の中心は美術という制度に対する批判にあり、多摩川とは「美術館の外」以上のものではなかったと思われる。後にサイトスペシフィックな作品を手がけるようになる川俣もまた、《バイランド》の段階においては、参照対象として河原にある鉄橋が必要だったことを認めつつも、「画廊の空間とはどこか異なるところでやりたいという意識」が強かったと述べている*4。蔡の作品は当時《人類の家――ノーマッドプロジェクト フォー E.T.》と題されていたことから分かるように*5、場所にとらわれない「ノマド」な作品に他ならなかった。これらは、多摩川という場所からインスピレーションを得て作られたものではなかったし、野外での展示が重要だったとしても、それは、美術館やギャラリーに対する批判的な考えからなされたと考えることができる*6。


読売アンデパンダン展の中止と地方での展開

美術館やギャラリー以外の空間で作品が展示されるようになった背景として指摘されているのは、1964年の読売アンデパンダン展の中止である。当時、中止を受けて行われたシンポジウムで、篠原有司男は「もはや都の美術館の壁面にこだわるべきではない。晴海の埠頭や多摩川の堤が、われわれの発表の場だ」と述べたと伝えられている*7。この発言が端的に示しているように、当時アンデパンダンで過激な作品を発表していた前衛芸術家は、美術館の外に出ることを目指した。篠原等アンデパンダンに異議を唱えた作家たちは同年6月に「オフ・ミューゼアム」展を開いたし、ハイレッドセンターもこの年に多くのイヴェントを行った*8。立石が多摩川で展示したのもこの流れにあると言ってよいだろう。
THE PLAY作品画像

THE PLAY《現代美術の流れ》1969年7月


読売アンデパンダン展の中止は、前衛芸術を地方に展開させることにもなった*9。64年に針生一郎が東京都美術館で企画した「アンデパンダン '64」展や、横浜の「全日本アンデパンダン」が行われた後、64年に仙台で「仙台アンデパンダン展」、65年に群馬で「群馬アンデパンダン」、岐阜で「アンデパンダン・アート・フェスティバル」が開かれた。その後も、66年に堺で「現代美術の祭典」、岡山で「汎瀬戸内現代美術展」、67年に高知で「南日本現代美術展」等が開かれるにいたった。もちろん、読売アンデパンダン展の中止以前から地方における集団的な活動はあったが*10、河口龍夫らグループ〈位〉が長良川の河原に穴を掘ったパフォーマンスや、池水慶一らTHE PLAYが矢印型の筏に乗って京都宇治川から大阪堂島川中之島まで航行した《現代美術の流れ》(1969年)といった、場所との関係が重要となる一群の作品が60年代半ば以降に生まれた背景には、若手作家の交流を促進した地方のアンデパンダン展の存在が指摘できる。

今日のアートプロジェクトを、作品の概念を問い直し、社会的な文脈に介入する試みと捉えるならば*11、その源泉は、こうした60年代の地方のアンデパンダン展から生まれた数々のパフォーマンスにあるのではないだろうか。当時、地方のアンデパンダン展に出品していた太田隆三らが発していたという「社会でやりたい」という言葉は*12、美術館での展示でもなければ、社会変革の運動でもない、社会「で」行う美術に対する関心を伝えており、今日のアートプロジェクトと共通するものがそこにはあるように思われる。


読売アンデパンダン展の批評的な帰結

読売アンデパンダン展の中止は、批評的にも重要な役割を果たした。中止を受けて東野芳明が開いた公開討論会「"反芸術"是か非か」に関する文章の中で、宮川淳が、反芸術を「卑俗な日常性への下降」と規定し、表現過程の自立としてアンフォルメル、アクション・ペインティングといった芸術の流れに位置づけたこと、さらに、それが東野との間に反芸術論争を引き起こしたことはよく知られている*13。しかし、本稿が注目したいのはそれとは別の批評の系譜である。宮川は、反芸術論争を終えた後、読売アンデパンダン展の中止を振り返って、次のように述べている。

今日、芸術がそのはげしい変貌にもかかわらず、なお展覧会を曵きずって行かねばならない事実にはほとんど原罪にも似たものがあるが、しかし、芸術の存在論的矛盾とでもいうべき状況、作品の非実体化はそれだけに、おそらくは必然的に展覧会の、ただちに否定をではなく、むしろ、価値転換を内在させずにはいないのである。会場芸術の否定も、タブロオ否定が単にタブロオであるがゆえの否定であるように、それが単に会場という場の否定にすぎないならば、ついになにほどのことでもないだろう。というよりも、われわれの陥穽は、現代の芸術に内在するこのような曖昧な状況が、単なる会場芸術の否定に安易にすりかえられがちなことにある*14。
東京ビエンナーレ参考画像

第10回日本国際美術展「人間と物質」(1970年)の図録表紙


宮川が指摘しているのは、現代の芸術が置かれたアンビヴァレントな状況、すなわち、展覧会を批判しつつも、そこで展示せざるを得ないという状況である。現代の芸術は、展覧会の価値転換を促す可能性を持ちながらも、読売アンデパンダン展が単なる「会場芸術の否定」とされてしまったことを嘆いているのである。

この宮川の議論に対して、中原佑介は「「単なる」「会場という場の否定」などということがそもそもあり得るのだろうか」と述べて*15、読売アンデパンダン展がもっていたかもしれない別の可能性を考えようとする。自らが企画した第10回日本国際美術展「人間と物質」(通称東京ビエンナーレ)の図録の文章で、中原は「臨場主義」という言葉を編み出す。それは、「アトリエのなかであらかじめ作品をつくり、それを展示するのではなく、直接、場所をたしかめ、その状況を知った上で、仕事をする」という態度である*16。それを「美術作品の根底的な変貌を指し示すひとつのあらわれ」と指摘する中原は、「この臨場主義は、単に作品のディスプレイということを意味しているのではない。それは、作品を場所と結びつけ、それらが切りはなすことのできない関係をもっていることの自覚なのである」と述べて、制作・展示される場所と密接に関係した作品のあり方を重視する。

中原のいう「臨場主義」は、サイトスペシフィシティと対応した概念であって、東京ビエンナーレに出品した海外の作家との出会いを通して得られたものと理解するのが普通かもしれない。しかし、読売アンデパンダン展やその中止の意味を深く受け止めた中原にとって、この概念は、読売アンデパンダン展を振り返るなかで生じたものと考えることはできないだろうか。 中原は、東京ビエンナーレを終えた後、次のように書いている。

今になって、私が読売アンデパンダン展の体験として強く感得するのは、意識のなかで空間を開放しようということ、あるいはその逆に、空間から開放されたいという狂気じみた欲望のようなものだと思う。展覧会会場に出現したさまざまな物体やガラクタは、そのための手段に過ぎない。というのも、そういう物質の媒介なしには、われわれの空間の知覚はあり得ないし、またその変質の意識もうまれることがないからである。東京ビエンナーレには、読売アンデパンダン展に凝縮したあの狂気のような雰囲気はなかったが、しかし、そこにみられたさまざまな物体もやはり、それ自体が実体であるような作品としてではなく、この「空間」の意味を動かすための操作として登場したのである*17。

読売アンデパンダン展では、作家たちによる「制度への挑戦」ばかりが目立っていたが、その背後には「空間への関心」があったのではないか。高松次郎の紐の作品が美術館を出て上野駅まで延びていったのは、社会に繋がっていこうとする関心の現われであり、他の作家たちによる一連の過激な作品も、美術館という場所に対するレスポンスと解釈することが可能なのではないか。読売アンデパンダン展と同じ東京都美術館で東京ビエンナーレを企画した中原にとって、読売アンデパンダン展を総括することは重要であった。この点については稿を改めて論じたいが、東京ビエンナーレを読売アンデパンダン展に対する中原のレスポンスとするならば、それは「会場芸術の否定」の影に隠れてわずかに見える空間への関心を掘り起こし、それをサイトスペシフィックな場所への取り組みへと深化させていくことであった。読売アンデパンダン展がもたらした重要な批評的帰結とは、宮川と東野の間に交わされた反芸術論争よりもむしろ、中原による空間や場所への眼差しであり、それを展覧会として提示した東京ビエンナーレだったのではないだろうか*18。


おわりに

グループ〈位〉『穴』, 岐阜アンデパンダン・アート・フェスティバル, 1965年8月『河口龍夫作品集』現代企画室より


読売アンデパンダン展の中止は二つの帰結をもたらした。一つは、中止によって地方でアンデパンダン展が開かれるようになり、そこで知り合った作家たちはそれぞれの場所において様々なパフォーマンスを行うようになった。美術の閉域に閉じこもるのではなく、かと言って社会変革の運動自体になるわけでもなく、それが作られる社会と関係しながら表現として深化させていく試みが地方の街なかや自然の中で行われていった。次に、読売アンデパンダン展の挫折は、批評的にも重要な役割を果たした。読売アンデパンダン展が、展覧会形式の否定ではなく、空間に対する意識を育んだことによって、場所とのインタラクションによって作品を作る「臨場主義」という概念が成立するにいたった。地方において場所との関係で作品を作るという今日のアートプロジェクトが成立する地平を切り開いたのは、実践的にも批評的にも、読売アンデパンダン展とその中止という出来事だったのではないだろうか。

より広い歴史的な文脈で考えるならば、椹木野衣が近年鋭く論じたように、読売アンデパンダン展の中止は、東京オリンピックを間近に控えて展開されていた都市の美化運動や変質者の取り締まりのキャンペーンとの関係で考えることが可能である*19。それは、1940年に開催される予定だった幻の東京オリンピックの準備において美術批評家協会が率先して参加した美化運動を反復したものであった*20。このような歴史的な背景を踏まえると、地方で行われていたアートプロジェクトが東京に登場したことの社会的な意味はきわめて大きい。東京のアートプロジェクトは、誰に向けて、何のために行うのか。社会とどのように関わっていくのか。美術の文脈においても確実に未来の現代美術史を形成していくであろう東京のアートプロジェクトがいかなるアートを生みだし、どのような公共性を提案していくのか、一人の鑑賞者として、大いなる期待とともに注目していきたい。

次回は 陣内 秀信さん(法政大学デザイン工学部教授)です

*1:『多摩川で/多摩川から、アートする アートの現場としての多摩川 観光芸術研究所から球体写真まで 1964-2009』(府中市美術館、2009年).
*2: 立石紘一「迷路からの脱出 アンデパンダン展についてこう考える」『美術手帖』第237号(1964年6月)、76ページ.
*3: 山中信夫「美術館を離れて」『美術史評』第3号(1971年10月)、21ページ.
*4: 川俣正、藤枝晃雄「空間を埋めることについて 現代との対話PART II--8」『みづゑ』第903号(1980年6月)、81ページ.
*5: この作品は、後に《Project for Extraterrestrials No. 1: 人類の家》と改題された。
*6: ここでは詳しく触れないが、中村政人等による「ザ・ギンブラート」(1993年)や「東京少年アート」(1994年)も同様の文脈で考えることができる。街なかで行われたこれらの展覧会について、村田真は「観客のためでもなければ、ましてや都市の美観のためでもない、美術家自身のトレーニングの場として機能した」と指摘している。村田真「美術の基礎問題 第19回」(http://www.dnp.co.jp/artscape/series/0201/murata.html)を参照。
*7: 北一郎「1964年/美術界評判記」『美術手帖』第245号(1964年12月)、84ページ.
*8: 《シェルター・プラン》、《ドロッピング・イヴェント》、《首都圏清掃整理促進運動》は、いずれも1964年に行われた。
*9: ヨシダヨシエ「流動化する地方の前衛 読売アンデパンダン展とその後」『美術手帖』第296号(1968年5月)、100-105ページ.
*10: 関西の具体美術協会や福岡の九州派はその代表的な例である。
*11: 川俣正・桂英史「アートプロジェクト実践のスキーム」東京芸術大学先端芸術表現科編『先端芸術宣言!』(岩波書店、2003年)、56ページ.
*12: 水上旬オーラル・ヒストリー、2009年3月22日、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ (http://www.oralarthistory.org).
*13: 宮川淳「反芸術 その日常性への下降」『美術手帖』第234号(1964年4月)、48-57ページ;東野芳明「異説・「反芸術」 「宮川淳」以後」『美術手帖』第236号(1964年5月)、46-49ページ;宮川淳「"永遠の可能性"から不可能性の可能性へ ヴァレリアンであるあなたに」『美術手帖』(1964年6月)22-25ページ;東野芳明「デュシャン・「グリーン・ボックス」・断想3 論争にかえて」『美術手帖』第238号(1964年7月)、46-50ページ.
*14: 宮川淳「理念と機構のあいだに アンデパンダン問題」『美術手帖増刊・1965美術年鑑』第246号(1964年12月)、80ページ.
*15: 中原佑介「物質から〈空間〉へ 読売アンデパンダン展以後」『美術手帖』第347号(1971年10月)、46ページ.
*16: 中原佑介「人間と物質」『第10回日本国際美術展 人間と物質』(毎日新聞社、1970年)、ページ表記なし.「臨場主義」という言葉に注意を促してくれた上崎千氏に感謝する。
*17: 中原「物質から〈空間〉へ」、44ページ.
*18: この点については註14の文献を参照のこと。
*19: 椹木野衣『戦争と万博』(美術出版社、2005年)、242ページ.
*20: これについては、友常勉「一九四〇年 東京万国博・オリンピックと被差別部落へのまなざし」(http://www.asahi-net.or.jp/~ls9r-situ/tomoar1.html)を参照。

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